日本で100点、フランスで0点??

私の友人に日本人とフランス人の夫婦がいます。その夫婦が日本からフランスに移り住むことになり、日本の小学校に通っていた小学6年生の娘さんがフランスの小学校に転校することになりました。転校して間もなく、彼女が得意な歴史のテストがあり、「第二次世界大戦とはなにか」という問題が出ました。日本の小学校では考えられないような出題ですが、フランスの小学校ではこのような記述式の問題も出ます。彼女は日本の教科書を読んで暗記していたとおり、次のように答えました。

 「日本、ドイツ、イタリアとアメリカ、ソ連、フランスなどが戦った世界規模の戦争で、1945年に終戦。」
小学生にしては立派な解答に思えますが、採点結果はなんと0点でした。納得のいかない彼女の母親に対し、担任の先生はこう言いました。「この解答には彼女の考え方が一つも入っていない。これでは、世界に対する彼女の考え方はゼロ。教科書の内容にも『ノン』という勇気を持つようにしてください。」

前回、フランス人の友人が、私が何を言っても必ずいつも「ノン(No)」と返事してくるという話を紹介しましたが、この担任の先生の言葉にも、学ぶということに対する日本とフランスの基本的な姿勢の違いが如実に表れています。単に正しい知識を得ればいいのではなく、その知識を使って自分自身がどのように考えるのかが常に問われるのです。

物事を疑うということは、哲学的思考法に通じます。なぜなら、物事を疑うことが、さまざまな視点から多面的な考え方をするきっかけになるからです。そもそも哲学は「知ることについての学問」といい表されることがあります。「物質とは?」「神とは?」「宇宙とは?」といった具合に、知ること全般に関わるのが哲学です。私が世界のエリートたちに触れてきて思うことも、この「知る」ということへの貪欲さです。

ひと言で「知る」というと、抽象的な表現になってしまいますが、もっと噛み砕いていうと、「知る=知識 ×哲学的思考法」 ということになります。この哲学的思考法を身につけるために有効なことが2つあると、私は思います。「本を読むこと」と「体験すること」です。

まず「本を読むこと」について。本を読むことで得られる知識の土台がないと、短期的に成功することはあっても、長期的にはうまくいかないと感じます。読書は知識を得るためのものととらえられがちですが、じつは「対話」のツールでもあります。「本と対話する」というと妙に聞こえるかもしれませんが、そもそも読書という行為は、著者との対話の機会だと私は思います。たとえばデカルトの『方法序説』を読んだときも、その間、私はずっとデカルトと対話しているつもりでした。「ここは、こういう意図なんですよね」、「本当にそうなのでしょうか」などと想像しながら対話をするのです。このように著者と対話をしながら本を読むと、何気なく文字だけを追って読むときと比べて、同じ本でも情報のインプットもアウトプットもまったく違ってきます。

次に「体験すること」について。INSEAD(欧州経営大学院)に留学していたことは前回書きましたが、そこでいきなり大きな挫折を経験しました。英語もフランス語も流暢に話せなかったために、周囲とうまくコミュニケーションを図れなかったのです。INSEADは完全なる相対評価なので、学生同士が授業中も競い合います。発言しないままでは落第してしまうのです。英語で思うように発言できなかった私は、朝起きると学校に行きなくない気持ちに苛まされ、人生で初めての胃けいれんを起こすまで追い込まれました。そんなあるとき、ある学生からこんな辛辣な指摘を受けました。「君は英語が苦手なことを理由に議論から逃げているだけじゃないのか。英語の力が僕たちの100分の1だとしたら、話の内容を100倍にすれば対等だし、僕たちは君の話を聞くだろう。そのための努力をしていないのが問題だ。」

仮に間違った意見だとしても、発言することによって周りから指摘を受け、自分の中に新しい価値を創造していくことができます。そのダイナミズムは、発言しないと享受できません。私は、発言してこそスタートラインに立てるということを、身をもって知りました。このように、人は大なり小なりの逆境に立たされたときほど、目からうろこが落ちるような新しい気づきを得られ、大きな成長ができる機会を得ることができるのです。

次回は「知識を疑う」ことの重要性について、引き続き、皆さんと一緒に考えていきたいと思います。