知識から教養に!

前回は「知識を疑う」と題してお届けしましたが、今回はそうして身につけた知識を、いかに自身の教養にまで高めるか、その方法論について述べたいと思います。

 ひと口に「知識」といっても、人の知識には何かしらのバイアス(先入観や偏見)がかかっていることが少なくありません。だからこそ、知識を疑うことによって、「知識」と「真理」がどれぐらい乖離しているのかを考えてみることが大事なのです。奈良にある有名な薬師寺の元管主・高田後胤(こういん)師は、「永遠なるものを求めて永遠に努力する人を菩薩(ぼさつ)という」と繰り返し説かれたそうです。これを私なりに解釈すると、「真理を求めて永遠に学び続けるところから教養が生まれる」となります。

前回、「知識を疑う」とはつまり、「あなたが知識として知っていると思っていることは、本当に真実なのか。それが真実だというのであれば、なぜそう言えるのか。論理的に正しいと言えるまで、掘り下げて考えていく」ことであると述べました。

「疑う」というと、なんとなく私たちは「物事に対して斜に構える」、「よくないことをしているのではないかと勘繰る」といったようなネガティブな印象を抱きがちです。しかし、ここでいう「疑う」とは、誤っている点を見つけて非難するという、揚げ足をとるようなこととは違います。どちらかというと、自分の考えを深めたり、新しい考えをつくり出したりするための「問い」というニュアンスです。

そもそも、こういう意味での「疑う」という行為は非常に大切なことなのです。哲学とは、「疑う」ことから始まるといっても過言ではありません。「疑う」ためには、自分とは違う考えを許容することが大切です。多様性を受け入れることによって、自分とは異なる考えに刺激を受け、自分の考えを深めたり、新しい考えをつくったりする。これが教養を深め、さまざまな問題解決につながっていくのです。

いまの世の中を見渡すと、ビジネスパーソンにしても学生にしても、効率を重視する傾向が強いと感じます。最短ルートをたどり、より短時間で問題解決を図るノウハウを求めている人が多いように思います。もちろん、ノウハウやテクニックも大切ですし、ないよりはあったほうがいいと思います。

しかし、決定的に欠けているものがあります。それこそ、繰り返し述べている「哲学的思考法」です。本質、原点、根源といった“根っこの部分”について、時間をかけてでも考えようという視点が大切なのです。事実、世界のエリートと呼ばれるような人たちは、そのような土台がしっかりしているように感じます。