現代の奴隷:中東に出稼ぎに行くエチオピア人女性たち:過酷な労働環境、性暴力などの犠牲に

(写真)=ハレゲウィン・アスマレさん。ベイルートから戻り、現在暮らすアディス・アババ西部の自宅の前で。©Kiyori Ueno

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 エチオピアは中東への出稼ぎ輩出大国として知られる。石油産出国が多い中東諸国は裕福で家庭内や建設現場などでの低賃金の労働の需要が多くあり、エチオピアなどのアフリカ出身者、インドやバングラディシュ、フィリピンなどから多くの移民が出稼ぎに行き、女性は多くがメイドなどの家庭内労働者として、男性は建設現場などで働いている。
 エチオピアは近年目覚ましい経済発展を遂げているが、いまだに世界の中でも最貧国の1つだ。
貧しい農村出身で教育水準が低い若いエチオピア人女性たちが仕事を求めて次々と中東諸国に働きに出ている。毎年20万人近くの女性たちが正規の移民労働者として中東諸国に渡っているのだ。
 アディス・アババに暮らす23歳のハレゲウィン・アスマレさんもその1人。メイドとして働くために約3年前にレバノンに渡り、1年半働いた。アスマレさんはアディス西部のトタンや泥の家が密集する集落で育った。父はアディスでラバを使って荷物を運ぶ仕事をしており、8人家族の家庭は貧しかった。アスマレさんは同じ集落から中東に出稼ぎに行った女性たちが家族に送金し、泥の家がセメントの家に変化したり、家族も新しい服を身につけたりするなど、みるみるうちに裕福になるのを見ていた。
渡ったレバノンの首都ベイルートでは、6人家族である雇用主の家だけでなく、雇用主の娘夫婦の家、そして雇用主の義母の家と3つの家で働いた。毎日早朝から夜中まで、休みなく働かされた。ドアは常にロックされ、外に出ることは一切許されていなかった。エチオピアの自分の家族と話すことが許されていたのは月に1度、10分間だけだった。雇用主から怒鳴られたり、殴られたりすることは日常茶飯事だった。給料は約束されていた月200ドルではなく、150ドルだった。
 アスマレがエチオピアに帰国できたのは幸運だった。ある日、通りにゴミ出しをしている時に何者かにピストルで殴られた。そのまま意識を失い、気づいたら病院のベッドの上だった。病院からそのままエチオピアに帰ってきた。帰国後、精神病院へ行くと医師からは当分の間薬を飲み続けるように指示された。まだ23歳の若さだというに、アスマレの髪の毛は白髪になりかけていた。
レバノンに渡ったアスマレさんの例のように、中東諸国で多くのエチオピア人女性たちを待っているのは劣悪な労働環境だ。逃げられないように雇い主にパスポートを取り上げられたり、休みなく長時間働かせられることなどは頻繁に起き、さらにひどいケースでは、言葉による暴力、身体的な暴力や性的虐待を受けたりするなどの例が国際機関や人権団体により多く報告されている。そのような劣悪な環境に絶望し、中には自ら命を絶つ女性たちさえおり、中東諸国から遺体となって戻ってきたエチオピア人女性たちの例も報告されている。命からがらエチオピアに帰っても精神に異常をきたしてしまう女性たちも多い。
 この “現代の奴隷”を可能にしているのが、カファラと呼ばれる中東諸国の制度だ。カファラとは、家庭内や建設現場などで働く移民労働者を管理するシステムで、単純労働者である移民労働者たちは出稼ぎ先の国でスポンサーを持つことが義務づけられている。スポンサーは通常雇用主であることが多く、雇用主が移民たちのビザや法的地位の責任を持つ。このカファラは、スポンサーである雇用主が移民たちを虐待しても法的に問われることがほとんどなく、労働者搾取をしやすくなるとして人権団体から批判されているシステムだ。
 しかし、経済的な問題から危険を冒してでも中東へ渡る女性たちは後を絶たない。外国へ行けばお金が稼げると信じて。それほどまでにエチオピアには貧しい人々が大勢いる。

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上野きより ジャーナリスト、フォトグラファー、元国連機関職員
信濃毎日新聞社、ブルームバーグ・ニュース東京支局などで記者として働いた後、国連世界食糧計画(WFP)のローマ本部を経て、食糧支援の現場であるエチオピア、ネパールで働く。2016年から独立。米国コロンビア大学国際関係・公共政策大学院修士課程修了。慶應義塾大学文学部卒業。東京出身。