「初心、忘るべからず」  能楽師の世阿弥

ビジネスに役立つ言葉たち⑭

 

朝日新聞社教育コーディネーター 一色清

 春です。進学、就職など人生の新しいステージに踏み出す季節です。新鮮な気持ちで「やるぞ」と張り切っている人が多いと思います。そんな時に改めてかみしめたいのがこの言葉です。

 言葉自体は、ほとんどの人が知っていると思います。ただ、誰の言葉かは知らない人が多いのではないでしょうか。室町時代に能楽をつくった世阿弥の言葉です。世阿弥が書いた能楽の書である「花鑑」の中で、「初心不可忘」とあるのがそれです。世阿弥はこの言葉の続きとして、「若いときの初心」「人生の時々の初心」「老後の初心」の3段階の初心があって、「それぞれの初心を忘れるな」と言っています。つまり、常に自分を戒めて向上するよう努めなさいと言っているのです。

 私たちは、世阿弥の言わんとするところまで深く考えずに、「最初の新鮮な気持ちを持ち続けて堕落しないようにしましょう」くらいの意味で理解しています。この言葉にはそれで十分、「確かにそうだ」と思わせる力があります。

 就職する際には、誰でも「初心」があると思います。「人の役に立ちたい」「海外で活躍したい」「社長になりたい」。もっと漠然と「これから何が起こるのだろう」という期待と不安がないまぜになった気持ちも初心です。しかし、こうした気持ちを忘れないことは簡単ではありません。現実は厳しかったり、人間は弱かったりして、膨らんでいた初心はだんだん縮んでいき、そのうち消えてなくなりそうになります。そこでハッとして初心を思い出せるかどうかで、人生は違ってくるように思います。

 私も新聞記者を志した「初心」はありました。「弱い人の立場に立って社会のゆがみを指摘したい」と思って入社しました。でも、時がたつにつれ、目先の他社との競争に勝つこととか周りから評価されることなどが自分の中で大きくなり、初心は小さくなっていきました。理想が現実に近づいていく当たり前の流れだったのかもしれません。ただ、そのことに気づき、時々「これではいかん」と思うことがあったただけでも、まだよかったのかもしれません。
写真は、グランフロント大阪の能舞台(Photo:©Asahisimbun)

 最近思うのは、官僚のことです。難しい国家試験に受かって国のために働くことになったのですから、「国民の幸せのために働きたい」といった初心はあったでしょう。でも、国会で何とかその場をしのごうとする答弁しかしない官僚には、保身しか感じません。こうした官僚には「初心、忘るべからず」と言いたくなります。

朝日新聞社 教育コーディネーター
一色 清(いっしき・きよし)
1978年朝日新聞社入社。福島総局、成田支局、経済部記者、週刊誌「アエラ」編集部、経済部次長を経て、2000年「アエラ」編集長。beエディター、出版本部長補佐などを歴任。08年10月から11年3月までテレビ朝日「報道ステーション」コメンテーターを務めた。共著に『知の挑戦 本と新聞の大学』(集英社新書)。