「すぐ役に立つことは、すぐ役に立たなくなる」

写真は©Asahishimbun

元慶応大学塾長の小泉信三氏、元灘中学教師の橋本武氏

ビジネスに役立つ言葉たち⑰

朝日新聞社教育コーディネーター 一色清

 この言葉が広まったルートには、ふたつあります。ひとつは、戦前から戦後すぐまで慶応大学の塾長を務めた経済学者の小泉信三氏のルートです。小泉氏は著書の「読書論」の中で工学博士だった谷村豊太郎氏が「直ぐ役に立つ人間は、直ぐ役に立たなくなる人間だ」と言って性急な人材育成を戒めたという逸話を紹介しています。ここからいろいろな人がこの言葉を引用して使い、世の中に広めてきました。使っているうちに「人間」が「こと」や「もの」に変化するバージョンが一般的になったようです。

 もうひとつのルートは、灘中学の伝説的国語教師、橋本武氏のルートです。橋本氏は戦前から戦後にかけて50年も灘中学で教えました。その授業は独特で、中勘助が書いた小説「銀の匙」一冊を3年かけて読むというものでした。いかにも効率の悪そうな教え方ですが、橋本氏がよく語ったのが、この言葉だったそうです。その後社会で活躍した教え子たちが、橋本氏の教えを象徴するこの言葉を広めました。橋本氏は2013年に101歳で亡くなりました。

 言葉の源は古いのですが、私は今こそ必要な言葉ではないかと思います。人工知能の発達はめざましいものがあります。今ある職業の半分は近い将来なくなるという予測もあります。たとえば、自動車の運転や整備の技術を身につけても、自動運転の時代には役に立たないように思います。一生懸命英語を勉強して通訳や翻訳の仕事を目指しても、人工知能による通訳や翻訳が普及すれば、仕事はなくなるかもしれません。少し前まで身につけると生活は安泰と言われていた技術が、人工知能にとって代わられるという恐るべき時代に入ろうとしているのです。

 そんな時代に大事になってくるのは、社会全体を考えることができる構想力、人間の幸せと社会の効率のいい頃合いを見つけるバランス力、ニーズを見つけるためのきめ細かい対話力などだと思います。こうした力は一朝一夕にはつきませんが、幅広く学んだり、さまざまな経験をしたりすることで徐々についてくると思います。

 たとえば読書でも、ハウツー本ばかり読んでいてもこうした力はなかなか身につかないと思います。社会の評価が定まっている古典はもちろん、小説、ノンフィクション、評論、詩などを幅広く読むことで、社会の仕組みや人間心理、思想の多様性、心の感受性などを知ることができます。

 いい映画を見ること、美しい絵を見ること、心地いい音楽を聴くことなどもいい経験です。友人たちとの語らいも大事です。結局、人間力をつけるということになるのでしょうか。

 今の時代、英語やプログラミングが重要だとして、教育改革の柱になろうとしています。しかし、気を付けなければならないのは、こうしたものは「すぐ役に立つこと」です。ひょっとすると、すぐ役に立たなくなるかもしれません。勉強すべきもっと大事なことがあるということは知っていてほしいと思います。

朝日新聞社 教育コーディネーター
一色 清(いっしき・きよし)
1978年朝日新聞社入社。福島総局、成田支局、経済部記者、週刊誌「アエラ」編集部、経済部次長を経て、2000年「アエラ」編集長。beエディター、出版本部長補佐などを歴任。08年10月から11年3月までテレビ朝日「報道ステーション」コメンテーターを務めた。共著に『知の挑戦 本と新聞の大学』(集英社新書)。