ビジネスに役立つことばたち「へたに動かない」

昨年11月の九州場所中に現役理事長のまま亡くなった北の湖さんが、初めて理事長になった2002年にたてた方針が「へたに動かない」でした。当時は、相撲人気が低迷している時期。にもかかわらず、むやみに動こうとしませんでした。

「がっぷり四つに組んで動きが止まるときがあるでしょう。へたに仕掛けてもスキを見せることになるだけ。グッと我慢して相手が息を吐く瞬間を待つ。息を吐いた時、力が抜けるから」(2004年5月8日付朝日新聞別刷り「beフロントランナー」のインタビュー)と、動かない理由を語りました。

人は権限を与えられたとき、動きたくなります。「こうすればこうなるのに」と前から思っていたことを実行できる立場になれば、すぐに実行しようとします。中には、「動かないと実行力がないと思われるから」とか「動いていないと落ち着かないから」などといった理由で動く人もいるでしょう。いずれにしても、人は動きたがります。みんなが注視している中、「動かない」のはとても胆力のいることです。

日本銀行は、黒田総裁が就任して以来、激しく動いています。2013年に国債などを大量に買い入れる異次元の金融緩和、俗に言うバズーカ第1弾をぶっぱなし、2014年にはこの買い入れ額をさらに増やすバズーカ第2弾を撃ちました。しかし、物価を上げてデフレから脱却するという目標は遠のくばかりで、今年になってマイナス金利というバズーカ第3弾を撃つことになりました。見ていると、バズーカの効果がなくなると、市場が次のバズーカを催促して、日銀がこらえきれずに撃つということが続いています。動けば動くほど事態が悪くなる蟻地獄に落ちたかのようです。

世の中の変化のスピードは速くなっていますので、ますます速く動くことが奨励されています。動かないことはますます難しくなっています。でも、動く前に動き方や動く方向、動く時期を見定める時間は必要です。それなのに、そのことはあまり言われません。北の湖さんは「動かない」と言っているのではなく、「へたに動かない」と言っています。見定めることができれば、一気に動くことが必要なことは言うまでもありません。

かつて「カリスマ」とよばれた小売り王がいました。日本にスーパーマーケットという業態を定着させたダイエーの中内功さんです。中内さんは、大胆な手をいくつも打って、マスコミを賑わせました。でも、まったく動かない時期もありました。数年静かにして数年激しく展開することを繰り返したので、中内さんは躁鬱気質だと言われました。私は、中内さんが動かないのは鬱だったのではなく、時を見定めていたのだと思っています。

武田信玄の軍旗に書かれていたという「風林火山」の意味を知っていますか。「はやきこと風のごとく、しずかなること林のごとし、侵略すること火のごとく、動かざること山のごとし」。つまり、速く激しく動くことと静かに泰然としていることと両方を大切に考えているわけです。時に「動かないこと」が大切だというのは、現代社会では意外に見落とされていることだと思います。

朝日新聞社 教育コーディネーター
一色 清(いっしき・きよし)
1978年朝日新聞社入社。福島総局、成田支局、経済部記者、週刊誌「アエラ」編集部、経済部次長を経て、2000年「アエラ」編集長。beエディター、出版本部長補佐などを歴任。08年10月から11年3月までテレビ朝日「報道ステーション」コメンテーターを務めた。共著に『知の挑戦 本と新聞の大学』(集英社新書)。