「クールヘッド バット ウォームハート」 イギリスの経済学者 アルフレッド・マーシャル

ビジネスに役立つ言葉たち

アルフレッド・マーシャルは、19世紀から20世紀にかけて活躍した経済学の大家です。特に価格決定における需要と供給の理論をきわめた学者として有名で、今もマーシャルの理論は経済学のベースになっています。そのマーシャルがケンブリッジ大学経済学部教授に就任するときの演説で強調したのが、この言葉です。

意味はおわかりでしょうが、改めて意訳すると、「冷静な頭脳を持ちなさい。ただし温かい心も持ちなさい」ということです。マーシャルは、数学者になりたかったという論理的な頭脳の持ち主でした。でも、経済学者になったのは、ロンドンの貧民街を見て、「この世から貧しさをなくしたい」と強く思ったからだそうです。自分自身を振り返りながら、学生たちにこの二つをあわせ持つ人間になってほしいと思ったのでしょう。

ビジネスの世界で、この二つをあわせ持つことの重要性はよく感じます。最近大きなニュースになっている自動車の燃費をよく見せようと不正にデータを操作した事件を考えてみましょう。燃費をよくする真の目的は、単にそのクルマをたくさん売るためではなく、環境に優しくするためのはずです。環境に優しくありたいという温かい心を持っていれば、小手先の数字をいじることの空しさは当然分かるでしょう。また、冷静な頭脳を持っていれば、そうした不正が明るみに出たときのダメージの大きさを計算することもできるはずです。この会社で不正に関わった人たちは、「どうせわかりっこない」と高をくくり、「売れればいいのだ」と目的をはき違えていたのだと思います。マーシャルの教えとは真逆の「ウォームヘッド クールハート」だったのではないでしょうか。

逆に、マーシャルの言葉を実践している人もたくさんいます。たとえば、「マザーハウス」というバッグなどを製造販売している会社を経営する山口絵里子さんは、その1人だと私は思います。慶応大学在学中にアメリカの国際金融機関でインターンをしたのですが、途上国援助に矛盾を感じて、バングラデシュに向かいました。そこで大学院を出たあと、24歳でバングラデシュ特産のジュートなどを使ったバッグを製造販売する会社を起業しました。
バングラデシュで作り、日本で売るというビジネスモデルです。ただ、このモデルの場合、バングラデシュの人件費の安さに目をつけて価格を売りにしていると見られがちですが、マザーハウスのバッグは違います。山口さん自身のデザインで、独特の風合いの高級感のあるおしゃれなバッグに仕上げています。起業して10年が経ち、現在、日本に18店、台湾に5店、香港に2店を展開しています。
山口さんの出発点は、先進国の途上国支援の矛盾にありますので、社会起業家とよく言われます。ただ、私が以前インタビューしたとき、そうした言われ方には同意せず、「利益が出なければ続けることはできません。あくまでビジネスと考えています」と言っていました。明らかに最貧国バングラデシュをよくしたいという「ウォームハート」を持っているにもかかわらず、ビジネスとしての持続可能性が大切なことを「クールヘッド」で見抜いていたのだと思います。

私は、どんな仕事も最終的に人を幸せにするためにあるのだと思います。そこにより近づけた人がビジネスの成功者になるのだと思います。でも、ビジネスの現場では、目先そんなことは誰も言いません。仕事は金を儲けるためにあるという「クールヘッド」で動いています。だからこそ、時々マーシャルの言葉を思い出して、「ウォームハート」の大切さをかみしめる必要があるのだと思います。

朝日新聞社 教育コーディネーター
一色 清(いっしき・きよし)
1978年朝日新聞社入社。福島総局、成田支局、経済部記者、週刊誌「アエラ」編集部、経済部次長を経て、2000年「アエラ」編集長。beエディター、出版本部長補佐などを歴任。08年10月から11年3月までテレビ朝日「報道ステーション」コメンテーターを務めた。共著に『知の挑戦 本と新聞の大学』(集英社新書)。