グローバルに生きる    

世界は広く、おもしろい!

上野きより ジャーナリスト、フォトグラファー、元国連機関職員
信濃毎日新聞社、ブルームバーグ・ニュース東京支局などで記者として働いた後、国連世界食糧計画(WFP)のローマ本部を経て、食糧支援の現場であるエチオピア、ネパールで働く。2016年から独立。米国コロンビア大学国際関係・公共政策大学院修士課程修了。慶應義塾大学文学部卒業。東京出身。

写真:WFP時代。エチオピアで、子どもたちと ©Kiyori Ueno

第1回 なぜジャーナリズムから国連にキャリア・チェンジしたのか?

 連載第1回目の今回は、将来グローバルに仕事をしたいという夢や計画をお持ちの皆さんに、自己紹介もかねて、自分がこれまでしてきたことについてお話ししたいと思う。

 私のこれまでの経験は、一言で言うと「これがやりたい!」という強い思いに突き動かされ、その欲求に素直に従ってきた結果、と言える。日本の新聞記者になったのも、ニューヨークの大学院に行ったのも、外資メディアの英文記者になったのも、国連で人道支援の仕事をしたのも、そして最近独立してジャーナリストに戻ったのも全てその結果である。

 英文記者をしたり、国連で働いていたために、「帰国子女だったのか」という質問をよく受けるが、私の両親は日本人で、私が生まれ育ったのは東京。帰国子女だったわけではない。(従って国連でも、その前職のブルームバーグでも英語で苦労しました!)

 けれども、幼いころから“外の世界”にワクワクし、好奇心旺盛で、いつか日本の外で働いてみたいと思っていた。医師であった父が、短期間ではあったけれども南アフリカやケニアで働いたり夏休みを使ってスリランカやフィリピンに赴き支援活動をしていたことなども、私に“外の世界”に対する好奇心を抱かせ、私の生き方に大きな影響を及ぼしたと思う。

 そんな私が中学生のころから毎日欠かさなかったのがNHKのラジオ英語講座。夏休み中でも家族で海に行く車の中で毎日欠かさず聞くほど大好きだった。毎日新しい英語表現を覚え、それを使って自己表現できること、英語を学ぶことで異なる文化に触れること、その楽しさといったら!

 高校生の時には迷うことなく外国語学科という専門コースがある都立高校に入り(父は、私が数学ができないことに落胆し、よく、「英語は頭がよくなくてもやりさえすればできるからやりなさい」と言っていた)、オーストラリアに1年間留学、現地の家族のもとでホームステイをした。これが私にとって初めての長期海外滞在である。

 この高校生時代には、多くの高校生のように「いつか国連で働きたい」という漠然とした気持ちがあった。けれども大学に入る前に興味の対象は心理学や社会学へと変わり、国連は頭からすっかり消えていた。新聞記者になろうと思ったのは、「人に会って、人に話を聞いて、記事を書く」、という、自分が大好きなことだけをして仕事とすることができると思ったから。外国には住んだことがあるが、両親も東京生まれで地方を知らなかった私は地方を知りたいという思いもあり、地方新聞の記者になった。

 新聞記者の仕事は、普通の会社員のものとは全く違った。日中は取材に出て、午後4、5時からが本番。記事執筆や記事チェックに追われる。事件事故があれば夜中でも現場に駆けつけるし、土日も休日も何か大きな事件が起きれば呼び出されて休みは吹き飛んだ。大変だったが、大好きな仕事だった。

 けれども日本の新聞社では英語を使ってする仕事はほぼ皆無。2年ぐらい経つと「日本の外に出たい」という思いが沸き上がってきた。自然と「アメリカに留学して、英文記者になろう」という計画が浮かんだ。けれども大学院入学に必要なTOEFLもGREも会場もテスト日も決められており、休日がいつ吹き飛ぶかも知れない新聞記者の私がテストを受けるのはほぼ不可能だった。約3年で辞め、大学院行きの準備に集中。無事に行きたかった大学院に合格し、2年間をニューヨークで過ごし、卒業後は帰国して英文記者となった。

 しかし英文記者として数年働いているうちに、今度は「日本の外に出てグローバルな規模で働きたい」、それも「人を助ける仕事がしたい」、という思いが込み上げてきた。すると自然と目標は「国連で人道支援の仕事をする」、となった。

国連に入るのは競争が非常に激しい。記者から国際機関の広報というのは比較的あるキャリアパスなので、待ってチャンスをうかがっていればいつかは入れるかも知れないと思ったが、私はすぐにでも国連で働きたかった。そんな時に日本政府が行っているJunior Professional Officer(JPO)というシステムを知り、そこから入るのが最も早道だと思い、応募して合格となった。

 国連で働き始めたのが2010年。まずはローマ本部(私が働いていた国連世界食糧計画の本部はローマにある)で2年、そして食糧支援の現場であるエチオピアで3年、最後にネパールで4カ月、支援調整官として本部と現場の両方で働いた。

 国連での具体的な経験については次回から少しずつお話をしたい。そして私が今回ジャーナリズムに戻ったのはジャーナリズムが大好きだったからだが、これについても、また別の機会にお話ししようと思う。