「国際機関で働くには粘り強い就職活動と、たゆまぬ努力」。IOMで働く冨田さん

写真は、エチオピアの首都アディス・アババ市内にあるIOMの事務所前の冨田優子さん。©Kiyori Ueno

連載:世界は広く、おもしろい!

 国際機関である国際移住機関(IOM)のエチオピア事務所で働く冨田優子さんにインタビューした。プロジェクト・オフィサー・リエゾンとして各国政府ドナー、ジュネーブのIOM本部、他の国連機関などとのコーディネートの仕事をする冨田さんは、IOMに就職して10月で4年になる。インターンからスタートし、仕事上の成果を出しながら粘り強く組織に残り続けるという、国際機関に特徴的な生き方をしてきた冨田さんは、国際機関を目指す若い日本人の方々にとり、お手本になる。

 現在29歳の冨田さんは、いわゆる帰国子女だ。外務省に勤める父親の仕事の関係で、ほぼずっと海外で育った。生まれは中国・北京。その後、日本でも短期間過ごしたことはあるが、香港、英国、バングラディシュ、スイス、ネパールと世界各地を転々とした。大学は米国カリフォルニア州の大学へ進み、国際関係を学んだ。そして卒業後すぐに英国のサセックス大学大学院でジェンダーと開発を学んだ。

 国際機関で働きたいと思うようになったのは小学生の時だ。日本からバングラディシュに移り住んだ。その頃、バングラディシュは何年ぶりという大洪水に見舞われており、暮らしていた家の付近一帯が水浸しになり、家の前をボートで移動した。父親がJICAが援助として建てた小学校の開校式に自分たちを連れて行ってくれたこともあり、開発プロジェクトの現場を見た。それに加えて、肌を見せてはいけない、スカーフをかぶらねばならないなど、ムスリムという異文化にも接した。この世界にはこんなにも違う文化があることを知った。

 けれども同時に、恵まれた自分と貧しい国とのギャップを強烈に経験した。バングラディシュの次に暮らしたスイスでは、ジュネーブ近郊の町の裕福な家庭の子どもたちばかりが通う中高一貫の寄宿学校に行った。同級生たちはTシャツ3枚に2000スイス・フラン(約21万円)を簡単に使うほど裕福な家庭で育った人々だった。スイスの次に移り住んだネパールでは、内戦状態で外出禁止令が布かれていた。カトマンズ市内には戦車やライフルを持った兵士たちが闊歩していた。「色々な国で暮らして、本当に様々な文化や生活があるということ、世界には計り知れない格差があるのだと思い知らされた子ども時代だった」と冨田さんは言う。そしてそれはいつしか、開発や人道支援の仕事をやりたい、多様性があるところで働きたい、という希望に発展していった。

 けれども、国際機関での就職は簡単ではなかった。大学院を卒業する頃、国連やNGOの空席に手当たり次第に応募したが全てだめ。どんなにジュニアなポジションでも働いた経験が必要とされた。大学時代にネパールやタンザニアで1—2カ月間、国連難民高等弁務官事務所やユニセフでインターンをした経験はあったが、それでは足りなかった。そこでとりあえずサセックス大学院の特別図書館のプロジェクト・アシスタントとして働き、1年ほどはウェイトレスとしても働き、国際機関での仕事に応募し続けた。しかし、それでもポジションが取れず、あきらめて中国・重慶にいる親元へ帰った。少しでも働こうと、駐在員の海外移転を助けるビジネスを行う会社で4カ月働いたが、やりたいことと違い、「この時は本当に鬱のようになった。でもこの経験を通して、興味がないものはやめたほうがいいと強く思うようになった」。

 そんな時、IOM本部のインターンの空席情報を知り、すぐに応募。しかし、これにも落ちた。けれどもじきに同ポジションが空いたとの情報が入り、再度挑戦してようやく合格。ようやくIOMに入り込むことができた。24歳の時だった。3カ月の契約を3回、計9カ月間働く間、本部ということを利用して、次につなげるために何十人に履歴書を送り続けた。が、インターンからのメールに返事をくれるスタッフなどいなかった。

 その中で唯一返事をくれたのがエチオピア事務所のケニア人の所長だった。プロジェクト開発・ドナーリエゾンとしての半年の契約をオファーしてくれたのだった。そして2012年11月、IOMでのキャリアが始まった。2年半、グレードなしのポジションで働き続け、1年前にようやくP-2というプロフェッショナルとして認められるポジションに昇格した。「入った当初は、予算というものさえどういうものなのか分かっていなかった。徐々に学んで、学びが大きかった。少しずつ責任も増えてきた」と自らの着実な進歩を語る。

 IOMで働く喜びは、「充実感」だという。ドナーから資金を持ってこられた時、エチオピア移民や南スーダン難民などの裨益者たちと一緒にいる時。「自分の仕事が、誰かの痛みを和らげることに貢献していたら、それは嬉しい。貢献できていると感じた時、最高の充実感が得られる」と話す。それに加えて、ドナーや政府関係者、裨益者など色々な人々と会うことができること、国際機関という環境がゆえに同じオフィスにいても文化が全く異なる人々と仕事ができる。これはストレスの原因にもなるが、楽しい、という。

 国際機関を目指す日本の若い人々へのアドバイスを聞くと、「まず英語。英語ができないと仕事ができないから」と話す。「それからネットワーキング力。日本ではネットワーキングは何か悪いものだと思っている人が多い。けれども国際機関は一度入っても終身雇用というシステムがなく、契約打ち切りは頻繁に起きる。競争も激しいので、生き延びなければいけないし、認めてもらわないといけない」。

 冨田さんは「何とかここまで生き延びてきた」と言う。今でも気は抜けない。それでも、他では得られない充実感があるから続けて行く。

上野きより ジャーナリスト、フォトグラファー、元国連機関職員
信濃毎日新聞社、ブルームバーグ・ニュース東京支局などで記者として働いた後、国連世界食糧計画(WFP)のローマ本部を経て、食糧支援の現場であるエチオピア、ネパールで働く。2016年から独立。米国コロンビア大学国際関係・公共政策大学院修士課程修了。慶應義塾大学文学部卒業。東京出身。