エチオピア・メケレ大学日本語講師の古崎陽子さん

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エチオピアのメケレ大学で日本語講師として働く古崎陽子さん。©Kiyori Ueno

連載:世界は広く、おもしろい!

今回はエチオピアの地方都市で暮らす日本人女性、古崎陽子さんを紹介したい。古崎さんは首都アディス・アババから約780キロ北にある同国第2の都市メケレの大学で日本語講師として働いている。この町で年間を通して暮らす日本人としてはたった1人だ。この町でネコ6匹と同居しながら暮らして6年になる。自分のやりたいと思うものを追求したら、このエチオピアの町に暮らすことになっていた。そんな冒険心に富んだ生き方を追求している。

 勤めるメケレ大学では現在は週に10コマを担当。1クラスの学生は6人から25人で、全学生数は46人。学生たちに日本語を教えるという仕事の他に考古学のフィールド調査などのアレンジや国際学会のコーディネートの仕事をすることもある。

 横浜市で育った古崎さんが初めて海外で暮らしたのは高校生の時。通っていた学校の姉妹校だった米国の名門寄宿学校に高校1年生から高校3年生まで通った。帰国してお茶の水女子大学へ。卒業後はアクセンチュア(当時アンダーセン・コンサルティング)に就職し、計12年働いた。

 エチオピアに初めて来たのは2008年。アクセンチュアが社会貢献の1つとして社員を海外へボランディアとして派遣するというプログラムがあった。このプログラムに合格し、エチオピアに派遣された。

 約9カ月のエチオピア滞在期間中は、エチオピアの環境系の小さいNGOの運営を助ける仕事に携わった。滞在期間中にメケレ大学で日本語講師を捜しているという話を聞いた。当時、アクセンチュアでの日本でのプロジェクトは大変だった。ストレスで食べてしまい、太る一方だった。エチオピアでは毎日ジョギングしていた。生活も好きだった。大きな敷地に何組もの外国人やネコと暮らして、とても楽しかった。2008年当時はアディスも車が少なく、大気汚染もなく、牛がよく横切っていた。健康的に暮らせた。仕事面でもエチオピアでの仕事は自分の貢献が目に見えた。

 「当時、ふと思ったのです。今35歳だ、と。5年後は40歳。15年後は50歳。50歳になると人生で大きな変化を及ぼすようなことはできなくなる。人生、ほとんど終わる、と。人生あっという間だと思った」と古崎さんは振り返る。「アクセンチュアでは応用のきくスキルが身に付いた。クライアントがいて、ソルーションを出す仕事」。

 もしエチオピアで失敗しても、日本に戻ってきてきちんとした仕事ができるという自信があった。何とかなる、という自信。貯金もあった。そして、エチオピアへ戻ることを決心した。2010年だった。

 エチオピアはアフリカ連合の首都であり、経済発展は目覚ましい。一方で、いまだに最貧国の一つ。停電は頻繁に起きるし、インターネット接続がないこともしょっちゅうだ。そのようなエチオピアでの生活は楽ではない。それでも首都ならまだしも、古崎さんが住むのは地方都市だ。在エチオピアの日本人は約200人いるが、ほとんどはアディスで暮らす。地方にいるのは国際協力機構(JICA)の青年海外協力隊ぐらいだ。けれども当の本人は、「メケレのほうが私は好きなんです。アディスはごみごみしていて」とあっけらかんとしている。

 現在、新たな計画を実行に移すところだ。日本に住む日本人投資家と、大阪でエチオピア・レストランを経営しているメケレ出身のエチオピア人男性と一緒に、エチオピアの秘境の地として知られるダナキル砂漠、世界遺産のアクスムなどエチオピア北部にフォーカスした旅行会社を立ち上げるところだ。会社を設立後、今年11月にはツアーを始めたいと思っている。

 「エチオピアにずっといるかどうかは分からない。今後のことは決めてないので分からない」と古崎は言う。「人生でやりたいのは、面白い仕事をすることと、大好きなネコたちと幸せに暮らすこと」と言って、あははと笑った。

 次々にやってくるチャンスをつかみ、仕事にしていく。このアフリカの大地で、たくましく暮らす日本女性の姿である。

上野きより ジャーナリスト、フォトグラファー、元国連機関職員
信濃毎日新聞社、ブルームバーグ・ニュース東京支局などで記者として働いた後、国連世界食糧計画(WFP)のローマ本部を経て、食糧支援の現場であるエチオピア、ネパールで働く。2016年から独立。米国コロンビア大学国際関係・公共政策大学院修士課程修了。慶應義塾大学文学部卒業。東京出身。